今回、ひとがた談話では「人形とルッキズム」をテーマにしました。ルッキズムという言葉が一般化する以前から、外見からの情報は危ういものとして警戒されてきました。その言葉が浸透してきた今でも、容姿による優劣は、私たちの日常に付き纏っています。そのため、意識しているつもりでも、その情報が内面への想像力を邪魔しているように感じます。

 私たちは生まれながら手にしているものと、手に入らないものを意識しながら生きています。それらは良くも悪くも、理想を求める要因になり、時には嫉妬として、ぐらぐらと感情を揺らします。不安定な感情は常に暴力に変わる闇を孕み、私たちの中に棲みついています。容姿による優劣から逃れられないのは、もしかすると、そんな暴力性を誰しもが持っているからなのかもしれません。

 人形は、はじめ理想を繋ぎ合わせた空っぽな器でしかない気がします。しかし、人形と向き合い、想像力を働かせると、生ぬるい体温のような「中身」を感じることがあります。恐らく、その「中身」は、対峙者自身に潜在する危うい不安定な感情なのだと思います。それに気が付くと、心の弱い部分を見られている気持ちになり、人間以上に体温のある存在に感じます。

 私たちは日々、自分の存在を認識するために、他者と対話をします。その際、相手の内面を覗こうとしますが、外見の情報を断ち切ることは不可能です。決まって内面とのズレがあると言えます。生身の身体を持つ他者ほど、不安定で不可解な存在はありません。それを超えるには、対話の中で自身の無意識な危うい感情を、想像する力が必要です。

 一方、人形は理想の集合体であると思うと、ある意味完結した身体を持ち合わせていると言えるかもしれません。人形と対峙し自分を見いだす時、私は自身の外見から一度解放されているように感じます。そのため、空っぽな人形こそ、内面を知るために必要な想像力を、自然と引き出してくれる存在に思えるのです。 

(人形作家 一実)